わたあめの日記

タイトルは歌詞です

毎朝、毎朝、翌朝に目を覚ます

2020.12.20 Sun

 

今日も今日とて何も手につかない。萎びた水菜を処理するために唯一の大学の友達を鍋に誘ったのだけれど、それまでの空いた時間に課題を1つくらい片付けようと思ったのに、パソコンを開いて更新をしてそのまま閉じてしまった。いつもの私なら1つやってその勢いですべて終わらせてしまえたはずなのに、どうしてもできない。まあまだ期限までには2日あるし、出席確認用の課題なので出さなくても問題ないと言えば問題ないのだが、やらないとどうしても焦ってしまう。私には課題以外に時間を潰す方法がツイッターしかないから、課題をやっていないことの焦りから逃れることができない。好きな人のツイート通知が来てスマホが震えるたびにツイッターを開くと、そのたびに胸糞コンテンツばかりが目に入るのでやるせない。少しくらいふふっと笑えたらいいのに。

 

この頃私は昼の12時くらいに起きてしまうのだが、今週の精神科には行けるだろうか。私の通っている病院は午前中にしか外来診療をやっていないから、12時に起きていたのでは当然間に合わない。早いときには7時に起きていったりしていた。今週は徹夜コースなのだろうか。精神科に行ったところで特に話すことはないのに、薬をもらわないと生きていけないから1時間もかかる道のりをはるばる行かなければならない。何を言ったって薬に変更はないし、主治医から励ましの言葉をもらうだけなのに。今月の私の調子はなんと言葉にしていいのかわからない微妙な感じだ。「ぎりぎりだけれど、なんとかやれています」と「なんとかやれているけれど、ぎりぎりです」のどちらが自分の状態に近しいのか自分でもわからない。仮にわかったとしても、言葉なんて記号でしかないから、それが主治医に正しく伝わる保証はない。再診とは、1か月分の私の生活の状態を私自身が主観に基づいて20文字くらいに圧縮して、主治医がそれを展開して分析するという作業なのだと思う。ときどき「生きような」と言われて、いつも2分くらいで終わる。意味があるのかわからないけれど、主治医にとっては私の顔を見るということが重要で、私にとっては毎月朝に起きて病院に行くということが重要なのだ。

 

希死念慮が完全に消える日なんて来るはずはないと思っているが、重要なのは希死念慮をまっさらになくしてしまうことではなくて、生きているということなのだ。希死念慮なんてあってもなくても関係なくて、とにかく生きてさえいればいい、と、私自身はなかなか思えないけれど、親や主治医の立場に立ったときには、きっとそう思うだろう。もちろん生きてさえいればいいということと希死念慮を放置してもいいということは同値ではないから、希死念慮のほうにもアプローチしているのだろうけれども、最低限のいちばん小さな目標として、自分を傷つけることなく生きていることがあるのだと思う。

 

Now Playing grasshopper / 04 limited sazabys