わたあめの日記

タイトルは歌詞です

どうせぼくと同じでしょうって言い切ったあと自分で後悔してしまった

2020.12.29 Tue

 

朝起きてしばらくすると胸が苦しくなって精神的にも苦しくなるアレに今日もなってしまった。珍しく8時台に起きたのだが、何となく気分が悪くて昼間まで布団の中でずっとまどろんでいた。読書をするなど活動的に過ごしたかったのに、無理だった。ただアプリを開いてボタンを押すだけの駅メモさえできなかった。

 

ほんとうはひとりがいちばん楽なはずなのに、ひとりでいても苦しいから、実家に帰れば楽しく過ごせるのではないかなんていう勘違いをして、早めに帰省してしまった。苦しいのはいつもと変わらず、それに加えて気を遣ったり心ないことを言われたりすることでさらに疲れてしまう。泣きそうで叫び出したいのを我慢して、上手く笑えないことを自覚してもどうすることもできず、家族にどうしたのかと訊かれることに怯えていた。彼らは何もかも精神科の薬のせいにする、彼らにとっては自分たちが絶対に正しくて、私が精神科に通っていることだけが確実に間違っているのだろう、彼らが助けてくれなかったから全く知らない知識ある他人に頼っているというのに。

 

ひとりがいちばん楽だけれど、それではきっと寂しかったりいらぬことを考えてしまったりするのだろう、ひとりの時間を満喫することはできず、たくさんの人の他愛もない言葉が流れるツイッターをずっと開いてしまう。好きなときに開いて、読んで、読んだらいいねを送り、何か言いたいときには空中にリプライを飛ばす、というくらいの関係が、私にとってはいちばん心地よい。直接顔を合わせる必要もない、嫌な気持ちになったら見なかったことにすればいい、適切な反応を強制されない、いてもいなくてもいい、みたいなのがいいのだと思う。ほんとうは人間なんかいなくたって平気だと言い切れるような人になりたかったけれど、人の温度にかすかに触れられる程度に、都合よく、ほとんど一方通行に、関わっていたいのだと思う。

 

ツイッターによると、苦しみをアイデンティティにしてしまった人は、自分の苦しみを分かってもらえないときには「誰も分かってくれない」と嘆き、理解者が現れたとしても「お前なんかに分かるもんか」とはねのけるという。だから何だという話ではなく、そうだね、という感じだ。

 

何をしていても、どこにいても苦しいことには変わらず、それは容易く希死念慮に変わってしまう。楽になりたい、そのために自ら死んでしまうことはきっと正当化されないだろうが、それ以外の方略は知らない。趣味や娯楽をするなどして苦痛から気をそらすなんて無意味な延命治療でしかない。その場はなんとか凌げるけれど、どうせまたすぐ死にたくなってしまうのだ。今は自殺念慮に頭を支配されるなんてことはないが、きっとそのうちまたそのような状態になってしまう。それが分かっているのに、どうして私は今も平気な顔をして生きているのだろう。死ぬことでしか救われないと繰り返し言葉にしながらも、生きていることをやめられないでいる。どうして? 

 

ちなみに私のアイデンティティ希死念慮です。

 

Now Playing サイデンティティ / ゲスの極み乙女。