わたあめの日記

タイトルは歌詞です

2021.06.05 Sat

 

たとえばひとの一生の幸福の総量が決まっていたとして(それはよくある認知のゆがみというか比較的一般的にみられる間違いだと思うのだけれど)、不幸がマイナスで幸福がプラスの世界で、不幸を一切なくしたいと考える人もいれば幸福度合いの高い時間を増やしたいと思う人もいて、たぶん後者のほうが結果的に幸せに過ごすことができて、前者は不幸にばかり目を留めるせいであまりいい気分になれないだろうとは思いつつも、私は圧倒的に前者の人間だから、不幸なことが起こるくらいなら生まれなければよかったと思うし、他者を誕生させることは罪だと思う。

 

今日書きたかったこと、おしまい。

 

ずっとTwitterをしてしまうのでこちらに書くことがない。

 

私は反出生主義に憧れていて、でもたぶん反出生主義者になることはできないと思う。いまでも架空の我が子との妄想をよくしてしまう。それは楽しいのだけれど、実際に産んだらそうもいかないことを肝に銘じておきたい。

 

ひとの考え方と人格の区別ができないのはとても悪いことだと思うのだが、全くと言っていいほどできていない。アンナタツイートをするたびにアンナタではないフォロワーにブロ解されてしまわないか不安になる。不安になるのにやめられない。

 

その理由が何であれ子どもを産むことは悪としている人と、そういう小難しいことを何も考えずに普通に結婚して当たり前のように子どもを成している人だったら、後者のほうが幸せなんだろうなあという話は以前フォロワーとしたことがある。人間は幸せなほうがいい、自分が少し変わるだけで幸せになれるのなら絶対にそうしたほうがいいのに、私はずっと生真面目なままで、差別主義者で、

 

幸せになれないのなら死んだほうがいい、幸せになるためには人とのあたたかい関わりが必要で、そのためには最低限の生産性が必要で(社会参画をする)、幸せって何だろうとか答えのできない問いを考え続けるような暇がないくらい忙しくして、とか考えていると、どうしても障害者は死んだほうがいいみたいな考えに至ってしまう。うまく言えない。よくわからない。とにかく私はとてもとても狭い「普通」の枠から外れた人に生理的な嫌悪感を抱き、早く死んだほうがいいと思う。で、自分がその枠から外れがちなので死ななきゃなあと思う。何とかして差別主義から脱却すべきだとはわかっているんだけど

 

やらなきゃいけないことをなにもしていないのにこんなものを書いていて恥ずかしくなってきた。