わたあめの日記

タイトルは歌詞です

「冗談だから気にしないで」

2021.03.28 Sun

 

私はツイッターを始めて反出生主義というものに出会って,その考え方に共感するようになった。それ以前のことはもう思い出せないけれど,なんとなく,ずっとそのような考え方だったような気がする。少なくとも中学生のころにはすでにどうして多くの人が子どもを作ろうと思えるのかわからなくなっていたと思う。当時の担任の先生が子どもができたという報告をしてくれたときに,毎日提出している日記に「どうして子どもを作ろうと思えたのか」みたいなことを書いた覚えがある。先生は「自分も実際に子どもができるまでそんなにほしいと思ったことはないし,できたとわかったときも責任やらなんやらプレッシャーで,そのような中で『どうしたらその子のことを幸せにできるか』と考えているうちに愛着がわいてきた」みたいなことを書いてくれたと思う。

 

ツイッターを始めてから私の反出生主義的な考え方は加速し,一旦は落ち着いたものの,今でも「子どもをつくること(この世界に新たな生命を生み出すこと)は罪だ」と思いがある。しかし,だから産んではいけない,とまでは思えていない。無責任に生み出してほしくないだけで,その罪を常に忘れずに,生まれてきた子どもを幸せにしてくれるのなら,出産してくれても構わない。それとは別に,私個人として,苦しい思いをしたくないから産みたくない,という思いはあるけれど,世の中にはいろいろな人間がいて,その人たち全てが絶対に産んではならないとは,なかなか言い切ることができない。

 

出生なんて親のエゴでしかない,ということを忘れてほしくないのだ。親は子どもを産みたいと思い,あるいは成り行きで産むことになったのだろうが,子どものほうは決して生まれてきたくて生まれてきたわけではない。にもかかわらず,「誰のおかげで生活できていると思っているんだ」みたいな言葉を聞くと,私に向けられた言葉でなくても,悲しくなってしまう。お前が好きで産んだのだから最後まで面倒を見て当たり前だろうと思う。

 

母にもよく「お前はご飯が出てきて当たり前だと思っているだろうが当たり前ではない」と言われて育ったけれど,それは親の責務であり,本来当たり前でなければならないものなのだ。親にしてみれば,仕事から帰ってきて疲れているのに山ほどある家事をこなさなければならないのは大変だろうと,私でもわかる。しかし,それは産む前から予測できることのはずで,産んだのなら当たり前に行わなければならないことだ。当たり前であることと感謝しないことは別の問題だから,感謝していないわけではないけれど,そのような言葉は子どもに不必要なプレッシャーを与え,安全な生活が保障されていないと感じさせる。子どもが安全だと感じられる場を提供するのは親の責務であるから,絶対に,「誰のおかげで生きていられていると思っている」みたいなことは言ってはならないのだ。

 

まだ書きたいことは書ききれていないのに長くなってしまった。とにかく,出生に子の意思は介在しておらず,ゆえに子どもを生むのは親のエゴでしかなくて,親が生まれた子どもを幸せにすることは義務だ。

 

常に幸福感を与えろと言っているのではなくて,子が安全であると感じられる環境を提供することと,うまく表現できないけれど,心身ともに健康に育ててほしいということだ。そうしたらある程度の年齢になれば勝手に自立を望んで自立していくから,親はそれを見守り,SOSを出されたら応答する,くらいの距離感でいればいいと思う。

 

私はそれほどの責任を負ってまで子どもを産みたくないし,出産は大変だと聞くし,子育てにはやたらお金がかかることは自明だし,そもそも子どもが好きではないから,絶対に産みたくない。万が一いつか新たな生命を生み出して育てることの責任の重さを忘れてしまったときのために,不妊手術をしておきたいとさえ思う。

 

なかなか集中できずにまとまらない文章になってしまったかもしれない。最悪だ。

 

Now Playing 彗星 / Lyu:Lyu