わたあめの日記

タイトルは歌詞です

瞳の色は夜の色、透明な空と同じ黒

2020.12.28 Mon

 

朝起きていちばんにしたことは今日もやはりツイッターで、昨晩の自分のツイートにざっと目を通した。また昨日も長文ツイートをしていた。夜になると精神的に不安定になり長文お気持ちツイートをしてしまうのだが、恥ずかしいのでやめたい。

 

昨日はアンビバレンツ(両価性)についてツイートしていた。私がこの言葉を用いるとき、たいてい統合失調症の1症状としての意味を持つ。精神保健福祉士の教科書に書いてあった。誰が提唱した話であったかはもう忘れてしまったが、統合失調症には両価性を含めた4つの症状が基本としてあるのだという。

 

両価性とはあるものに対して同時に正反対の感情を抱くことを言う。たとえば、好悪の感情を同時に抱く。「好きだけど、嫌いなの。」だけど、というのはまた違うのかもしれない、好きで嫌いなのだと思う。そのあたりの言語的な表現は少し難しいところがあるかもしれない、論理的整合性が取れない感情だから。

 

私はこれを人間に普遍的なものであると思っていたし、今も思っている。ものごとには多様な側面があり、それらひとつひとつに好悪判定をしていったら、結果的に対象がひとつと数えられるものであってもさまざまな感情を抱くことになり、ときに正反対の相反する感情をもつのではないか?

 

「死にたい」と思っている人は、同時に「生きたい」とも感じているとよく聞く。この「死にたい」が本当に死にたいのではなく、苦痛から逃げて楽になりたいだけの場合が多いから、「死にたい―生きたい」を単純に両価性と言ってしまうことはできないだろうが、これが最も身近で分かりやすいのではないだろうか。

 

対立する2つの感情を抱いてしまうことについて、私はどうにかしたいとは思わない。これを好きだと思う自分も、嫌いだと思う自分も、その様子を俯瞰している自分も、すべて同一個体であると問題なく認識できている。仮に両価性が病的なものだとして、どうしてそのようなことになってしまうのか、といったらたぶん「精神が分裂しているから」に他ならないのだろう。しかし、自我が形を成し始めてから私はずっとそうだったし、それが当たり前だった。両価性によって社会生活上で困難を被ったことはないし、やはり病的なものだとは思えない。ただ、何かを決断しなければいけないとき、自分にとってどうするのが望ましいのか分からなくなってしまうことはある。しかし、どのような道を選んだとしても、後悔することはないのだ、その道に対して満足と不満足の両方をもつから。その満足した気持ちに重きを置いてあげれば、後悔することなんてないのである。

 

人間があるものに対してひとつの単純な感情しか持たないのだとしたら、獣で良いとすら思う。動物と人間を区別する必要なんてないと感じる。動物と人間を分けるものがあるのだとしたらそれはきっと知能だから、複雑な精神活動ができないのなら、人間でなくていい。人間にとって人間とは神様と獣の間にあるもので、獣との差がないのなら、人間は獣でいいのだ。

 

Now Playing ゼロ / BUMP OF CHICKEN