わたあめの日記

タイトルは歌詞です

憎しみより有毒な拘りが苦いのよ

2021.01.07 Thu

 

ノートや手帳を、使いもしないのに欲しくなる。先日、フォロワーが手帳を買いに行っているのを見て、私もとても欲しくなった。しかし、買ってからぱらぱらと開くだけで、一度として使うことはないのである。手帳を買って最初の方は使うけれど数週間経つと開かなくなってしまう、というのはあるあるだと思うのだが、私は一度も書き込まない。第一、予定がないから、手帳が必要となるような生活をしていないのである。しかし、かわいらしい手帳があるとそれだけで気分が良くなるので、お金がいくらでもあるのなら5冊くらい買いたいなと思った。

 

半年くらい前に、普通のB5のノートよりも少し小さいくらいのノートを買って、日記をつけていた。自由に書きたかったから、罫線のないものが欲しかったのだけれど、無地のそのサイズのノートは打っていなかったから、代わりに方眼のものを買った。珍しくそのノートは使い切ることができて、次のノートを買いに行ったら、それと同じノートは売っておらず、しかし店をはしごする気にもなれなかったから、Campusの青いノートを買った。B罫線のものである。しかしそれはまだ半分も使っておらず、それなのにインターネットに日記を書くようになってしまったから、しばらくは使わないだろうと思う。

 

小さめの方眼のノートを買ったころ、私はインターネット、というかSNSのすべてが嫌になってしまい、アカウントを消して、浮かんだことはツイートする代わりにすべてそのノートに書いていた。自分の生活や言葉や考えを切り売りし、知らない人からいいねをもらって満足している、という図式が非常に気持ち悪く恥ずかしいものに感じられていたのだ。自身の自己顕示欲が気持ち悪すぎて、もう二度とインターネットなんてやるもんか、という気分だった。しかし、いつの間にかツイッターの世界に帰ってきていて、今なんかはてなブログで日記を毎日公開している。当時の私が見たら嘔吐してしまうかもしれない。

 

インターネットが好きだったり、嫌いだったりする、そういう一貫性のなさが自分の中にあることが、私は少し不快だ。大好きだった人に一貫性がなさすぎると叱責されたことを思い出す。彼は一貫性というものをかなり重要視していた。しかし、その彼でさえ「自分は一貫性のないことに一貫性がある」などと屁理屈としか思えないようなことを言い出す始末なので、人間に一貫性を持つということは結構難しいことなのだと思う。私は必ずしも一貫している必要なんてないと思うし、むしろ、たとえば筋なんて通っていない好きなように発散している文章が好きだ。

 

Now Playing 殺し屋危機一髪 / SOIL&”PIMP”SESSIONSと椎名林檎